エッセイ 一般
スウェーデン点描
点描1 老いの寄る辺なさ
スウェーデンへの第一歩はストックホルムであった。デンマークのカストロップ空港からストックホルム郊外のアルランダ空港までは所要約一時間。そこから市内の中央駅まではシャトルバスで四○分ほどであった。飛行機での短い移動であったが、外界と遮断された狭い箱のような機内にいると、不思議とひとつの光景が思い出された。
前曰、ベァナドッテゴーを訪れた帰りに、ロスキレ駅の近くにある少し寂れた感じのするパブ風の店で遅い昼食をとったときの光景である。ランチタイムはもうすでに終わっていたためであろうか、店には若い男女一組の他にはひとりの年老いた女性がいるだけであった。八○歳は過ぎているように見えたその女性はセンスのよい身形をしていたのだが、黙想しているのか軽眠しているのか、目を閉じたまま少し背もたれの感じでじっと座っていた。テーブルの上にはなにかを書き込んだ小さなノートを置き、開いたままのノートの上にコインがいくつか無造作にのせられていた。テーブルの上には筆記具はなかった。
お世辞にもおいしいとは言えないピザを食べながら、時々彼女の方に目を向けたのだが、老女はこの間まったく同じ姿勢で、三○分後に筆者が店を出たときにもそのままであった。いつ来ていつまでいるのか、毎曰そうしているのか、もとより知る由もなかった。
福祉社会における老人の寂しさや孤独に関心のある人々には、打って付けの光景になるだろうと思った。確かにそれは、老いを生きる身のある種の寄る辺なさを感じさせはしたものの、筆者にはそのことと福祉社会云々とは結び付かなかったし、また、そこがデンマークで彼女がデンマーク人であることとも関係なかった。むしろ、老いを長く生きてきたことからくる祝福と重荷とが庫然と隣居しているような印象を、その上品な身形の老女の姿から受けたと言えばよいだろうか。
だから、黙想なのか軽眠なのかはどうでもよいことであって、おそらく彼女は昼下がりのがらんとした店で 人に見られることすら気にかけずに、過ぎ去った時間の中で遊んでいるのだろうと想像した。それを寂しさとか孤独とか呼ぶのは勝手だが、これらの言葉すら空しくなるような老いのどうにもならないものを感じたのである。そしてそれは、場面こそ違え、曰本で自分の回りにいる老人たちから時々感じることでもあった。
点描2 都市のゲーム
ストックホルムには週末を含め四曰間滞在したのだが、天気には恵まれなかった。北国の秋は旅人を欺くようなところがあって、朝方快晴であっても長続きせず、急に雲が低くたれこめすぐに灰色の空に変わって雨が落ちてくる。陽が遮られると気温も実際以上に下がったように感じられ、薄着で出たことを後悔させられる。十月も中旬近くになっていた。雨まじりの冷たい風に顔を引き締めて早足で歩く人々の姿から、冬の足音を間近に聞くようになって人々はいつもの生活に戻ったように思われた。
ホテルの付近を歩いているうちに、広場に出た。名前は忘れてしまったが、道路面からは一段低い、底の広いすり鉢状のコンクリート広場である。周りには大きな図書館が入ったビルや地下鉄への出入口、ショッピングセンターなどがある。そして、一方の側は、広場がステージになったときには観客席にもなるゆるやかな階段がつくられていた。単なる広場ではなく、都市機能に組み込まれた場所でもあったからそこは同時に絶えず人々の動きのある、雑踏の交錯するところでもあった。
現在のストックホルムがもっている雑多な顔が見られた。髪を染め、それを鶏冠のような形に塗り固めて黒の皮ジャンを着た若者のグル1プや、見るからに南欧、地中海あたりから来ているのではないかと思われる労働者ふうの人々。また、ディルの小葉をのせたオープンサンドを昼食にとったレストランには、チリの政治ビラをテーブルの上において話している若い男女の一組。大道芸でロックを演奏している素人バンドといった具合である。逸脱の風貌を装い若さを誇示しているようでもあり、またもて余しているようでもある皮ジャンの若者たちの姿も、おそらく出稼ぎであろうと思われる南欧風の人々が仲間たちと談笑している光景も、それぞれに人間を感じさせた。
地下鉄の出入口近くのエスカレーターや壁、そして観客席にもなる階段あたりにはスプレーによるとみられる落書きがたくさんあった。黒、白、赤、ピンク、緑と実にカラフルなものである。だれが何時している仕業かはだいたい見当がついたが、清潔な国スウェーデンのイメージとは似つかわしくない落書きの氾濫は逆にこちらを安心させた。
週明けにここを通ったとき、中年の女性と若い男性のふたりが金ベラのようなもので落書きをこすりとっている最中であった。なにが書いてあるのか興味があったので尋ねてみたのだが、彼らには英語が通じなかった。かろうじて分かったのは彼らがともにフィンランドから来ていることと、落書きの内容についてはプロテストという単語が聞けただけであった。始めは政治的スローガンかとも思ったのだが、見た感じではどうもその種のものとは思えなかった。むしろ、彼らのボキャブラリーの中ではプロテストという言葉が数少ないひとつになっているのかとも思えた。彼らの仕事はあまりはかどらず、結構こすっているのだが落書きはなかなか姿を消さなかった。しばらく見ていたのだが、全部はとてもできないと判断したのか、それとも少し消そうとするだけで十分とされているのか、ふたりは途中で作業をやめて去っていった。
要するに、落書きをめぐっていたちごっこをしているわけである。一方には、多分夜遅くにでも落書きをする人間たちがいて、他方には、負担率の高い税金を使って移民労働者を一雇いそれを消そうとする広場の管理者たちがいる。落書きも度を越すと景観を損ねるであろうから、ひどくなると消さなくてはならないだろう。しかし、消したはなからまた書き落とされていく。無駄といえば無駄な話には違いないが、人間と社会との関係を考えれば無駄とも言い切れないのではないだろうか。
そう思ったのは、そこがストックホルムだったということもある。アメリカの大都市のダウンタウンにもやはり落書きはたくさん見られるのだが、アメリカの場合には人も社会も落書きに負けているように思えてならない。あるいは、落書きをいたちごっこのゲームにするだけの余裕が社会の側になくなったとも言えるかもしれない。落書きがわざわざ人目につく所に書かれていることを見れば、書いた人間たちはそれが消されることを期待して書いているはずである。そして、それを目にする大多数の人々は、ときに眉をひそめるにせよ、ゲームのルールがなんであるのかを本質的には知っている。だから、落書きとは都市のゲームというか、ひとつのショーなのである。落書きをする人間がいなくなったとしたら、その社会は逸脱への許容度を失った超管理社会になるだろうし、一方、落書きを消していく余裕のなくなった社会は人間の中の矛盾性をエネルギーとして社会を活性化していけなくなるから、デュルヶーム的に言えばアノミー状態に陥る危険がある。
ストックホルム最後の夜、夕食をとった帰りにこの広場を通ったときには、大学生たちが座り込みをしていた。九時半頃であったが冷たい夜気の中で震えながら聞いた話は、次のようであった。ストックホルムには約五万人の学生がいるのだが、学生用の宿舎は六○○○人分程度しかない。そのため多くの学生が民間のアパートを借りざるを得ないのだがへ民間のものは家賃が高いのでもっと学生用の宿舎を確保するよう政府に要求して、学期の始まるこの時期に泊まり込みをしているのだという。
さまざまなプロテストがこの広場で行われているようであり、落書き消しのフィンランド人たちの口からこの言葉が出てきた背景が想像できたのである。
点描5 ウプサラにて
ウプサラはストックホルムの北、約七○キロの位置にあるスウェーデンの古都である。ストックホルムの郊外を抜けると、森林地帯に変わる。森といっても露蒼と樹木が繁っているのではなく、二○メートル以上はあるかと思われる大体同じ高さの針葉樹が延々と続き、ところどころに白樺が散見される。
ストックホルムを出たときには陽光がさし快晴であったのに、森林地帯に入った頃から急に天気が変わり始めた。雲が低くたれこめ早く流れていく。快晴の空があっというまに、どんよりとした灰色の空に変わってしまった。陽が遮られると気温も急に下がり、薄着で出てきたことを後悔せねばならなかった。
ウプサラの街は両側を樹林にはさまれつつ走っていたヨーロッパ幹線道路El4が少し下りかけたところで、突然前方に開けた視野の中に現れた。そしてまもなく、スカンジナビア最大のウプサラ大聖堂の二本の長い尖塔が遠くに見えてくる。中世スカンジナビアの中枢都市であったウプサラには大聖堂の他に、一五世紀後半に建てられた北欧最古の大学であるウプサラ大学や一六世紀に築かれたウプサラ城などがあり、重厚な歴史の時間を静かに背負った建物がいくつも残っている。
とりあえず車を駐車場に入れ、大聖堂へと向かった。途中、街の中心部に小さな川があり、川沿いに市民の休曰市場が開かれていた。野菜類が主でビート、にんじん、じゃがいもなどや小粒のりんごが売られていた。品物は種類、品質ともに貧弱であった。対照的に、いろいろな種類の生花が目を引いた。口に入れるものにはあまり頓着せず、部屋を飾る生花を大事にしているあたりにスウェーデンの人々の国民性が感じられる。
売り手も買い手もほとんどが老人であり、どんよりと曇った空の色と不思議に調和した寂れた雰囲気があった。あまり商売にはなっていないようであった。列のはずれで橋のたもとに近いところでは、ひとりの老女が森で採ったであろうキノコを薄紙の小さな箱に入れて売っていた。帰りにもここを通ったが、売れた様子はなかった。
尖塔までの高さ一二○メートルという中世ゴシック様式のこの大聖堂は、間近かで仰ぎ見ると天に近づかんとする人間の意思を嫌なほどに印象づけるのだが、内部もまた屋根を突き抜けて天に向かう威容な空間になっている。堂内は広いことは言うまでもないのだが、ただ単に広いのではなく恐ろしく高い天井と、それをさらに高く感じさせる両側に並ぶアーチ状の柱によって空間を垂直化している。そして、人をその秩序に完全に引き込み身動きできなくさせるような、見るからに頑丈な木の長椅子が主祭壇につながる中央の通路をはさんで何列も配置されている。
大聖堂がこの地に築かれたのは一二六○年頃と伝えられているが、それから完成までに一七五年もの歳月が費やされた。建築技術の関係もあって最初から現在のように尖塔を擁していたのではない。それにしても、途方もなく長い時間がかかったものである。我々からみれば完成まで大変な長さの時間をかけたとしか思えないのだが、それが延々と築かれた時代の人々にとってはむしろ、永遠に完成することのない作業のように感じられていたのではないだろうか。当時は寿命も短かかったから、自分に物心がついたとき工事は行われていて、また、自分が死んでいくときにも続けられていたことになる。大聖堂が完成するときは、無限の時間の中に吸収されていたのであろう。つまり、完成まであと何年という意味での現実的な時間意識ではなく、明曰が永遠と隣り合わせの時間が流れていたように想像される。
見学者も疎らな堂内をぐるりと一巡りしてから、そばの長椅子に座った。そしてふと、ここでいつもどのような説教がなされているのかを考えた。
もとよりこれはウプサラ大聖堂だけに限られた問題ではなく、今曰のスウェーデン社会でキリスト教会が人々にいかなるメッセージを送っているかという問題である。結婚の形式や家族の在り方が相対化し個人の解放が非常に進んだスウェーデン社会において、キリスト教会がいかなる存在意味をもっているのかと言い換えてもよいだろう。とくに人の一生を通じてのさまざまな個人儀式が個人の選択に委ねられ、葬式や墓を含め教会離れとでも言うべき傾向が定着しているように思えたからである。
スウェーデンを理解するひとつの鍵はキリスト教にあるのだが、キリスト教が強力なブースターとなって構築されてきた社会に生きる人々は制度的諸力から極めて自由になった現状で、逆にキリスト教渡来以前の原初的土着性の観念世界へ関心を向け始めたのではないかという印象を受けた。
あるいは、中世においてもキリスト教がそうした土着性を破壊しきらなかったのか、しきれなかったのか、いずれにしても宗教改革を含めスウェーデン社会はキリスト教会とのさまざまな歴史的出来事を経験しつつも、微妙にして静かな共存を維持してきたとも言えるだろう。この点は王制の存続についても当てはまると思われるが、革命のような過激な方法を極力とらずに、しかしそれでいて革命以上にラジカルな社会改革を現実に行っていくというスウェーデン社会の不思議な特性が浮かんでくる。
現代のスウェーデン社会はキリスト教とマルクス主義の最良の部分を活かした社会であるとときどき形容されるのであるが、仮にそうであるならそれを可能としたスウェーデン的メンタリティとでも呼ぶべきものが必ずあるのではないだろうか。なぜなら、キリスト教とマルクス主義は一種の近親憎悪の関係なのであって、共同体の在り方については非常に似通った考えをもちながらも、それを根底で支える正当性の点ではともに排他的だから、その両者を統合しうるとすれば第三のファクターがどうしても必要となる。このことはまた、マルクス主義と資本主義の最良の部分を活かした社会という形容の仕方についても言えるはずで、社会民主主義にその説明をすべて期待するのは無理であろう。
筆者はむしろスウェーデンの文化的伝統としての共同体のプロトタイプ(原型)を理解することが重要であると考えるようになった。これが第9章のテーマである。
点描6 さお秤
ストックホルムからルンドまでは二泊三曰の気ままなドライブ旅行だった。EI4号線をノルチェピングまで走り、そこからE166号線に入りバルト海ぞいに下りていく。途中ヴェースタヴィックという街に昼食を兼ねて立ち寄った。
食事の後、港に出てみた。平曰だったこともあろうが、冷たい風が強く吹き付け人影もなかった。そんななかで初老の男性が木で作った簡単な台の上で野菜や果物を売っていた。じゃがいも、ビート、ブロッコリー、きゅうり、トマトなどの野菜と一緒に三、四種類のりんごがそれぞれ小さな木箱に積まれていた。こんなところで果たして商売になるのか、入ごとながら心配になるような光景であった。いくつかりんごを買おうと思って見始めると、彼はひとつ切って味見させてくれた。りんごはどれも小粒で不揃いそのものであったが、素朴な自然さが感じられた○五個買うとひとつ小さいのをおまけしてくれる。英語は通じなかったから、財布の小銭を全部手のひらに開けてその中から取ってもらう。
このおじさん、重しに分銅を使う小さなさお秤を器用に操っていた。懐かしいというよりさお秤など筆者が物心ついたときにはすでに姿を消していたようなものだから、こんなところで出くわすといろいろと考えさせられる。モノと人の関係についてである。優れた工業力を有するスゥェーデンのことだからもっと便利で廉価な秤は何種類もあるに決まっている。にもかかわらず、彼は昔ながらのさお秤をなんの違和感もなく使っている。ただ単に使い慣れているとか、古いものに固執しているからではなく、さお秤が古いという意識そのものが彼にはないのだろうと思えた。
モノがモノとしての機能を果たしている間は特別の不自由が生じない限り、他のものに切り替えることはないのではないか。だからそこにはまだ、モノを作る人間へのイメージがたとえ残像であるにせよ、使う人間の中に生きているとも言えよう。
モノに対するこうした姿勢は、実は資本主義的ではない。資本主義は経済学的に言えば資本の蓄積とそれに基づいて生ずる資本の独自的運動性、あるいは生産手段の所有形態の観点から説明されるのだが、平たく言えば、人々の生活に密着したところから出てくる〃必要に迫られて“の原則から生み落とされたにもかかわらず、その進展は逆にこの原則を押し潰していったのであり、便利さ、種類の豊富さ、大量生産による廉価ざなどによりモノと人との関係から「作る人間」のイメージを消去していったのである。残ったのはモノと「使う人間」だけの関係であり、それは同時に、利便性と引き替えにモノから人と人を繋ぐ「関係の道具性」を奪うことを意味していた。
しかし、資本主義は瞬く間に新たなる幸福原理の地位を揺るぎないものにしていったのである。それは唯物的幸福原理であったが、資本主義の進展過程に置き忘れてしまった意味を拾い出そうとすれば、モノとはそれを切実に必要とする人間にとってはかけがえのない働きをするという事実である。自明のことには違いないが、物が溢れた社会の人々は忘れてしまっている。
そして、欲求、すなわち、ニードという概念が近代的個人主義に支えられつつ神聖な座を占めへその拡大と再生産が資本主義の生存と肥大化に不可欠の社会心理的栄養源となっていく。ニードは「使う人間」とモノとを繋ぐ概念として社会的に実体化されていく。ニ-ドに応えるという表現は、今日においてもそうであるように、あらゆる企業活動の社会的正当性を支え、一面においてはニードに必要性という意味もあることから推察できるように、実際そうでありえた部分が確かになかったわけではない。だが、資本主義はそうした牧歌的な段階を軽々と凌駕し、その後はニードの絶えざる開拓と再生産に邊進していくのである。
しかも産業化が進みモノに対してサービスの比重が高くなった社会では、サービスが形をもたない直接的な人間のやり取りであるがゆえに、ニードの概念が暴走する危険が高まってくる。とくにケアと呼ばれる援助サービスの場合には一種のヒューマニズムがまとわりつきながら、結果として新たな疎外状況が生まれることになりかねない。老人のケアについてみても、老人が必要とする援助と提供されるべきサービスとをつなぐ役割がニードの概念に期待されているのは明白である。
したがって、例えば実際のケアにおいては老人たちのニードに応えようとし、さらには先手をとって新たなニードを開拓、提示していくことが善きケアと考えられていく。だが、老人たちを欠損人間のイメージで理解していくことがその代償であることに気付く人は少なく、また、彼らが自足的存在であることもサービス提供者の意識から消え、後に残るのは萎えた人間像だけとなりかねない。ニードの概念を補完しつつ新たなケアの論理を構築する必要のあることを、ケアを受けている老人たちから教えられるのである。
ともあれ、幸福原理としての資本主義がナイーブなまでに信奉されているのがアメリカであり、テレビのコマーシャルなどでワンパターンのごとく繰り返されるnew and improvedのメッセージは強烈である。新しい製品は常に進歩したものであるという考え方は資本主義のエッセンスそのものであり、そうしたモノ離れの良さが技術革新の原動力となっていく。
おそらく歴史的にみれば幸福原理としての資本主義がひとつの時代精神を成す時代のあることは否定できないと思われるが、これからの時代を生きる人々にとっての課題が欲求、ニード拡大や再生産ではなく充足と自足の学習であることを考えると、さお秤を巧みに操るおじさんの健全さとしたたかさに学ぶものは少なくないはずである。
老いた資本主義の先を展望しようとするならば、モノがかつてもっていた「関係の道具性」を復権させることであり、その現実的可能性は実は老人ケアの世界に見出だせるのである。ケアを必要とする老人が未曾有の規模で出現する社会にあって彼らが切実に必要とするモノ、すなわち、補助具、自助具の意味を発見することなのである。
『福祉社会スウェーデンと老人ケア』(木下著、勁草書房、1992)