エッセイ 一般
アメリカ・タウンゼント運動の意義と限界
木下のこの小論は、雑誌『ゆうゆう』(財団法人日本老人福祉財団)、74 号、1988 年に掲載された。
老人社会運動のルーツをたどる
-アメリカ・タウンゼント運動の意義と限界-
木下 康仁
タウンゼント博士が目撃したもの
ウォール街の大暴落に端を発した未曾有の経済不況にアメリカ全体があえいでいた1930年代の話である。ロサンゼルスの南、ロングビーチ市に住んでいた退職した内科医タウンゼント博士は、ある朝自宅の台所の窓から次の光景を目にした。二人の年老いた女性が彼の家のゴミ箱に手を入れて、まだ食べられそうなものが捨てられていないかあさっていたのである。人目に付きにくい朝の時間に、おそらくは家々のゴミ箱をあさる以外に食物する得ることのできない老婆たちの運命に博士の心は痛んだ。そして、ふと目をそらすと、すぐ近くに食物を店いっぱいに並べた商店のショー・ウインドーが見えた。このとき、博士の正義心は爆発し、彼は老人たちを苦境から救うのが自分に課せられた使命であるという神の啓示を受けた-と伝えられている。これが、アメリカにおける老人社会運動のルーツとでも言うべきタウンゼント運動の発端である。1933年に一介の老町医者によって始められた運動は、わずか数年間のうちに、幾百万の大衆の支持を獲得し、全国に組織網をはりめぐらして、文字通りアメリカじゅうを席捲する熱狂的な一大社会運動に発展した。
もっとも、社会を根底から揺り動かすほどの大きな社会運動であっても、その発端は、その時期としては別に珍しくもないごく日常的な光景なり出来事であることが多いもので、タウンゼント運動も例外ではない。発端を神話化することによって、その運動の必然性と正統性を社会的に打ち立て、指導者を一種のカリスマに仕立て上げるという構図は、古今東西を問わず、社会運動、大衆運動という現象に共通した特性である。
タウンゼント・プランへの反応
啓示を受けてからの博士の行動は、まさに神がかり的であった。すでに60の峠を越えていた博士は、タウンゼント・プランと呼ばれるに至る救済プランの作成に没頭し、1934年の元旦をきしてそれを発表、運動の火ぶたを切った。プランはきわめて簡潔なもので、三つの主要部分から構成されていた。(1)政府は60歳以上のすべてのアメリカ市民に月額200ドルの老齢年金を支給する。(2)この年金を受給する者は、30日以内にその全額をアメリカにおいて支出するよう義務づけられる。(3)年金の財源は一律2%の取引高税によってまかなう。つまり、今風に言えば、福祉目的の新型一般消費税である。
月に200ドルという金額は、今では大した額ではないのだが、当時としては大変な高額であった。一般の労働者でも週給50 ドルをとれれば最高水準であったし、人によっては週20 ドル程度の給料で家族を扶養していた。良いレストランで食事をしても60 セントしかかからなかった頃である。
タウンゼント博士は、友人であった若い不動産業者と協力して、プランを印刷した説明書を手当たり次第に郵送し、運動への支持を呼びかけた。説明書には、タウンゼント・プランを連邦議会で立法化させるのがこの運動の唯一の目的であると記され、支持者は 年間会費25 セントを支払うこと、また、自分の近所に支持者の集まりであるタウンゼント・クラブを一つ作るよう働きかけられた。
反応は博士らの予想をはるかに上まわり、9 か月後には返信が一日2000 通を超えた。そこで彼らは、運動本部をロサンゼルスに移し、スタッフは95 名にものぼった。1934年末になって、より強力な政治活動をするため運動の全国本部を首都ワシントンに移転 し、統計家、経済学者からなる専門家集団が結集された。そして、運動が開始されてから1 年後には、タウンゼント・プランへの支持を訴えて当選したカリフォルニア州の下院議員により、プランを立法化するための法案が議会に提出されたのである。
若者は仕事、老人は遊べ
1935 年が終わる頃には、平均500 人の会員をかかえるタウンゼント・クラブは全国に4000 あるといわれ、小規模なクラブの数は把握できないほどであった。タウンゼント博士は、連邦議会にあてた陳情書に署名した者は2000 万から3000 万人にも達したと述べている。比較的信頼できる数字が残っているカリフォルニア州サンディエゴ市の場合、80 のクラブが組織され、会員約3000 人、つまり、市の人口の5 分の一を占めた。草の根的に拡がったこの運動の推進力は、タウンゼント・プランに支持を訴える地域集会であった。きれいに形作られた演壇、音楽隊、マイクロフォンの使用、そこに運動本部から選り抜きの演説家たちが派遣されていった。二か月に一度は数千人規模の大集会が催され、さながら19 世紀のリバイバル(キリスト教への信仰復興)集会のようであった。発言者は次々とタウンゼント・プランへの支持を表明し、反対する者の罪の深さを糾弾したのである。
「若者は仕事、老人は遊べ」、「若者には仕事の山を、老人には微笑みの嵐を」、「三人の解放者-ワシントン、リンカーン、タウンゼント」といったスローガンが叫ばれ、さまざまな替え歌がつくられた。例えば、だれもが知っているある行進曲には、次のよう な詞がつけられた。
歯車は廻り、工場は動く
若者は力にあふれ仕事にはげむ
年寄りは憩い、楽しみにうずく
タウンゼントよ、ありがとう
運動の資金は会員費によってまかなわれ、活動家の平均年齢は50 代後半、だが70 歳代の老人も非常に多くみられた。しかし、20 代、30 代の若い年齢層には活動家も一般支持者もほとんどみられなかった。
タウンゼント運動の落とし穴
急激な勢いで肥大化したタウンゼント運動は、指導者たちが思いもしなかった速さで衰退、瓦解していった。プランは簡潔なものであったから大衆にはわかりやすかったが、粗雑で現実化するために必要な緻密さを欠いていた。博士自身、複雑な経済情勢を理解できていたのでもなく、また、政策立案に携わった経験も皆無であった。したがって、プランを真剣に検討した政治家たちや社会科学者たちは一貫してこれを批判、その立法化に反対していた。理由はさまざまであったが、極度に疲弊した国家財政のもとで新税導入によってもすべての60 歳以上の老人に月額200 ドルも払えないという点では共通していた。1930 年代後半になると運動の勢いに急ブレーキがかかる。言うまでもなく、大衆の支持が失われていったためであるが、その過程で重要な出来事が三つあった。1936 年に下院はこの運動の幹部と財政運営に関する調査委員会の設置を240 対4 という大差で採択し、委員会は一部幹部の好ましくない過去の経歴と財政上の不明朗を明るみに出した。そのため、タウンゼント博士は幹部たちが委員会の公聴会で証言するのを拒否するよう命ぜざるをえなかった。
幻想から目を覚ました大衆
調査委員会の活動以上に大きな意味をもったのは、1935 年にアメリカ史上初の社会保障法が成立したことであろう。月額200 ドルには遠く及ばないものの、大きな幻想的希望が小さいが確かな現実となったときから、大衆の心はタウンゼント運動から離れ始めたのである。博士は年金額の少なさを理由に社会保障法に猛反対の立場をとった。これは当然のこととして、この法律が一部を成していたニュー・ディール政策全般とその中心者であるルーズベルト大統領への反対にならざるをえなかった。博士は自分の立場を受け入れるよう支持者たちに働きかけたが、圧倒的大多数はタウンゼント・プランのみについて博士を支持していたにすぎず、他の諸問題についてはニュー・ディール支持者だったのである。
運動の幹部たちは、自分たちの運動がルーズベルトに利用され骨抜きにされると感じ、以後、反ルーズベルト色を前面に出して運動の再生を試みたが、衰退の勢いはもう止めようがなかった。もっとも彼らの言い分も全く根拠がないというわけではなかった。ルーズベルトの前任者は福祉政策面では無策に等しかったし、社会保障法にしてもルーズベルトの政策リストの中ではさほど重点策ではなかったからである。したがって、タウンゼント運動がこの法律の制定に寄与したことは間違いない事実であり、この運動の役割はそれだけで達せられたと考えられる。
ルーズベルトに失望した博士は、最後の望みをかけて1940 年の大統領選挙では、対立する共和党候補の支持にまわったが、運動の支持者の多くはルーズベルト再選のために働き、運動の衰退を決定的なものにした。
こうした出来事の他にも、タウンゼント運動に水をさす状況がいくつかあった。例えば、アメリカ人にとって象徴的な意味をもつハムと卵をスローガンにした「ハム・アンド・エッグ運動」や「毎週水曜日に30 ドル運動」のような、本質的に類似した運動が始まったことである。その結果、単に支持者が分裂しただけでなく、タウンゼント運動の必然性と正統性が全く相対化されてしまい、大衆はその幻想から目を覚ましたのである。
現代にも息づくタウンゼント運動
大不況という危機状態におかれた人々が、明日をも知れぬ窮乏の中で絶望していたとき、彼らは確かにタウンゼント・プランに一つの明るい光を見た。若者にはまだ時間があったが、年老いた人々はあまりにも無力であった。だから、博士が「ひしひしと迫りくる恐怖の冬」について語るとき、老人たちの心は救済プランにすがる以外になかったと言うべきであろう。この運動の限界は、博士自らは老人の救済に全力をかけたとしても、推進母体は老人のことよりは自らの利益を優先する便乗組によって形成されていたところにある。さまざまなイデオロギー団体、扇動的政治家たちの寄り合い所帯であった。
タウンゼント運動は未曾有の経済不況という異常な時代に、十九世紀的メンタリティと近代的社会構造との接点に咲いた一つのあだ花であった。しかし、このあだ花は朽ち果てはせず、ルサンチマン(怨恨)と化して今日に至るまでアメリカの老人福祉に影響を与え続けているのである。
(参考:引用『社会運動の心理学』、キャリントル著、南他訳、岩波書店、他に木下収 集の英文関連資料)