エッセイ 一般
福祉国家ニュージーランドの迷走
ニュージーランドは、不思議な国である。その豊かで美しい自然は、広大で単調なオーストラリアからタスマン海を渡って入ると、より鮮明に印象づけられる。日本に似た多様な気候と起伏に富んだ国土はある種の懐かしささえ感じさせる。そして、素朴で親切な国民性、ときに南太平洋の英国と呼ばれる気品、その英国以上とも言える充実した社会保障制度~人口約380万人のこの辺境の小国はのどかな生活が営まれる地上の楽園のようなイメージすらある。
そのニュージーランドが、病んでいる。社会が蝕まれ、人々の心がすさみ始めている。希望が落胆に変わり出口の見えない状況のなかで、人々が疲れはてつつあるように思える。1998年から99年春にかけて三回のフィールドワークを終えた筆者には、今その思いが強くなっている。
近年、ニュージーランドが世界的な注目を集めてきたのは、この国が先進国のなかで公的部門の改革をもっとも急激に押し進めてきたことに関してである。ニュージーランド・モデルと称された同国の経験は、一時の賞賛的評価を経て現在ではその評価が分かれ始めている。
筆者の調査の目的は、高水準の社会保障制度を構築した国家が財政難から国家資産の売却に加え、一連の改革、すなわち、規制緩和と民営化、公的事業体のエイジェンシー(独立行政法人)化、民間委託の拡大、そして政策立案部門と現業部門への公的部門の組織上の分離、疑似市場化の導入などを急激に実施した場合、改革に不可避とされる痛みが社会的にどのように生ずるのかを明らかにすることにあった。とくに、改革が経済活動の活性化を目的とした段階から、歳出削減を目的に肥大化した公的部門へと拡大されていくとき、その“痛み”は援助サービス利用者への具体的なものとなると考えられるから、その実態を理解することが調査で意図したことであった。市場(Market)があたかも意志ある主体であるかのように実体化され、市場競争原理をエートスとする自由な市場のダイナミズムへと信頼の対象が移行するとき、歴史的には、その限界から構築されたはずの広義の所得再配分である社会保障制度とその実施者としての政府の責任は抑制、縮小化されざるを得なくなるのであるが、その時一体いかなる言葉によってそうした変化が意味付けされるかは政治思想的問題となる。市場と政府(国家)の間で歴史的振り子が今、市場重視の方向に大きく動いているのであり、その最先端をニュージーランドが走っていると言えよう。
この問題がニュージーランドだけのものでないことは言を待たない。経済成長の鈍化と人口の高齢化による社会保障支出の将来的増加などを背景に、世界的潮流としては1980年代に登場したイギリスのサッチャー政権とアメリカのレーガン政権に代表される経済面における新リベラリズムと政治面での新保守主義を軸に、西欧先進諸国共通の課題としての社会システム改革が着手され始める。つまり、経済の活性化と福祉国家の危機の克服が主たる課題とされたのである。ソ連と東欧の崩壊により政治面でのイデオロギー的軸は薄らいでしまったが、経済面に関しては90年代に入りその重要性はむしろ増してきている。
日本の場合も、橋本政権が意図した諸改革はこの世界的文脈において理解されるものである。例えば、規制緩和により個人の創造性が活かされ新しい産業が生み出されるためにとか、高齢化が進んでも就労世代の負担が重圧になりすぎないように社会システムを変えなくてはならないとか、人生50年時代を前提に作られた社会の仕組みでは人生80年時代は乗り越えられないとか、あるいはこれらをまとめる形で、日本の将来の為には戦後50年近く日本を支えてきた社会システムを今思い切って改革しなくてはならないといった主張が繰り返されてきた。そして、バブル経済の崩壊の後、「マーケットが、市場が・・・」で始まる表現が何の抵抗感もなく使われるようになり、突如市場主義者しかいないがごとに言語状況になっている。
ニュージーランドに比べ、行政制度や産業構造の圧倒的複雑さのために日本の場合には改革が遅々として進まないため、ニュージーランドで行われたこととその結果は情報としても十分伝わっていないし、それを理解する素地自体もまだ醸成されていないように思える。その意味で、日本はまだ牧歌的状況にあるとも言えよう。
ところで、ニュージーランドは世界的にみてもかなり早い段階に福祉国家に到達できた国である。英国の植民地として近代的歩みを始めたこの国は19世紀後半には繁栄の時代を迎え「社会改革の実験室」としてヨーロッパに広く知られるようになる。以後今日に至るまでこの表現はこの国を理解する重要なキーワードとなっている。
社会政策面でみると、フェビアン的自由主義の影響が顕著だった1890年代、労働党政権が福祉国家の初期モデルを提示した1930年代、そして、財政危機を背景に大胆な公的部門の改革の断行に入った1980年代と三度の大きな改革を経てきた。そのどれもが「実験室」の名に相応しいものであった。
1893年には世界で最初に婦人参政権が認められ、男女の普通選挙が実現した。また、1894年には労使間の強制仲裁制度が導入された。その結果、ニュージーランドの福祉施策は国家による直接的援助の方向ではなく、完全雇用の重視と公権力が関与する賃金設定の方向性が確立した。労働組合が法的に承認かつ保護され、賃金水準も上昇し、ストライキのない国として知られるようになる。さらに、1898年には老齢年金制度が英国よりも10年早く導入された。
福祉国家としての整備は1916年の労働党の結成と共に始まり30年代に進められたが、この時期特筆に値するのは1938年の社会保障法の制定である。普遍的所得保障に加え、医療保健サービスを無料で提供するという画期的内容であった。
そして、1960年代にはニュージーランドは国民所得でも福祉諸制度においても世界でも有数の水準を達成し、名実共に豊かな国となる。
ニュージーランドが早い時期に福祉国家を内実化できたのは、英国の食料庫としての役割により歴史的に市場を保証されていたことによる。しかし、農業国としてのニュージーランドの繁栄は、1973年の英国のEC加盟により国際市場競争にさらされることになり、国内の農家は深刻な打撃を被る。
70年代のニュージーランドの政策展開は、混迷を深める。農業経営者と製造業者への保護を重視した国民党マルドーン政権(1976-84)は財政支出を大幅に増加させ財政破綻をもたらす。二度のオイルショックの影響もあり、補助金と規制が極端に肥大化した。共産圏諸国以上に規制の強い国と称されたニュージーランドは実はマルドーン政権時代の結果であり、その後に始まる改革の急激さと表裏的である点を見落とすべきではない。
そして、分水嶺となる1984年を迎える。総選挙で政権についた労働党ロンギ政権は、選挙公約になかった大胆な改革に電光石火着手する。政府の補助金の撤廃、林業、炭坑業、電気産業などの国営企業の民営化、間接税である物品サービス税(GST)の新設、一定額以上の年金受給者への課徴金の導入や60歳から65歳への受給年齢の段階的引き上げなどからなる政策綱領を発表する。ここから始まる一連の改革はその後、財務大臣ロジャースの名前からロジャーノミクスと呼ばれることになる。閣僚の大半が40代前半という若い政権は、変更為替制への移行、通信・郵便・運輸などの民営化、銀行業への参入自由化、中央省庁の事務次官クラスの契約制、小中高等学校への大幅な権限委譲、などを実行していく。経済的新リベラリズムを理論的根拠にまさに「実験」と呼ぶのが誇張でない大胆な改革に着手したのである。
ただ、ニュージーランドにとって皮肉な展開となったのは、ロンギ政権が労働党政権だったことである。労働党政権下による改革はオーストラリアも同様であるが、オーストラリアの場合にはニュージーランドよりも複雑な政策決定システムため改革内容もずっと緩やかなものであった。ロンギ政権が意図したのは、待ったなしの状況にたち至っていた財政危機の打開であり、所得の多い年金受給者への課徴金を除けば社会保障関係の改革には自制的であった。しかし、この点を含め改革をどこまで進めるかをめぐって政権内部で意見が分かれ、ロンギ政権は内部崩壊することになる。加えて、国営企業の民営化により地域の産業基盤を失ったところや年金受給者の反発などがあり、労働党政権への国民の反応は非常に否定的になる。
その結果、90年の総選挙で労働党は大敗し国民党ボルジャー政権が誕生する。国民党政権は改革の流れを引き継ぐのであるが、その段階で未着手のままであった主な公的部門は労働党が踏み切らなかった社会保障分野であった。ボルジャー政権は歳出削減を目的にこの分野に対して抜本的見直しを開始する。例えば、雇用契約法の制定により福祉国家ニュージーランドの伝統であった労働組合の役割を実質的に骨抜きにし、労働市場自体を自由化する。その一方で、失業手当や寡婦手当の引き下げ、医療費の自己負担の導入、高等教育の授業料の有料化などが相次いで実施に移された。そして、1993会計年度には16年ぶりに国家財政は黒字に転じる。
ボルジャー政権は引き続き、医療・保健・福祉分野のサービス供給体制を分割化し民間事業者との競争形態を導入したコストの削減化を積極的に推進する。一言で要約すれば、民間の企業論理を公的部門に導入したのであり、現象としてはマネジャーの誕生である。マネジャーとは一定の権限、裁量を付与される代わりにアカウンタビリティ、アウトカム・パーフォーマンス(outcome performance)などの指標で評価される職種であり、実績に応じた身分であるからいずれにしても不安的である。また、すべてがマネジャー化することにより責任もまた機能的に分化してしまう。マネジャー職の移動は激しくなるなかで、大きな責任主体は逆にあいまい化していく危険も内包する。つまり、一見責任が明確でありながら最終的責任主体がぼやけていく。
ボルジャー政権は93年の総選挙をわずか過半数一議席という際どさで乗り切るのだが、この頃から国民のなかでは行く末が不透明になりつつある改革の将来に不安が増していく。しかし、国家財政の均衡化とその継続といったもの以外に具体的目標がないため、そして、それ自体極めて達成困難なわけであるから、社会保障分野に及んだ改革の波は自己運動のようにさらに進んでいくことになる。先に指摘したように最初の改革が国民を欺く形で労働党政権によって始められたため、その後労働党自体が信頼を回復できず政治的選択肢として麻痺してしまう。
96年の総選挙は比例代表制を特徴とする新しい選挙制度で行われ、国民党と労働党の伝統的二大政党化が新党の登場により多党化し、どちらも単独政権を構成できなくなる。連立政権をめぐる駆け引きの結果、第一党であった国民党が少数民族であるマオリ族割り当て議席をベースとするニュージーランド・ファースト(NZF)党との政策協定に成功し、政権を維持する。ところが、NZF党の主張はもともと国民党よりも労働党に近く、国民党はこの連立の代償として年金受給者への課徴金の廃止や6歳児以下の医療費の無料化といった政策を飲まざるを得なかった。そのため国民党の内部での対立が激化し、改革推進の立場が党の指導部を占めるようになる。そして97年12月に、ボルジャー党首に代わる新しいリーダーとしてジィーニ・シップリー女史がニュージーランド初の女性首相に就任する。
シップリー政権下では連立はそれまで以上に不安定なものとなり、同政権誕生後一年を経ずして解消され、以後、少数与党政権になって現在に至っている。
一方、労働党の方も女性党首ヘレン・クラークのもとで再生を進めてきた。とりわけ、英国のブレア労働党政権やドイツにおける社会民主党政権の誕生の流れを追い風に、次期選挙での政権復帰に照準を定めた活動をしている。
今年が総選挙の年であり、早期解散で若干早まる可能性もあるが、重要なことは、84年以来15年にも及ぶ改革のなかで、政党側の手詰まりと国民の側の疲れが支配的ななかでニュージーランドが今までにも増して選択肢のない選択をいかにするかにある。91年以降政権を担当してきた国民党に対する批判も高まっているが、他方、労働党にしても現実性のある対案があるわけでもない。政党が希望を与えるコトバをもてない状況の深刻さは、かつて最高水準の福祉国家であった事実と照らし合わせると、不思議な印象を与える。
出口の見えない改革の影響はすでにニュージーランド社会に深刻な問題を引き起こしている。例えば、OECD23ヶ国のなかでニュージーランドの若者の自殺率は女性でもっとも高く、男性で3番目に高い。96年時点で就労可能人口の21%に当たる45万人が政府の援助に依存しており、その半分強は一年以上の長さである。子どもの約30%は政府援助に依存している家庭で暮らしている(85年にはこの比率は12%だった)。その他、犯罪の増加、とくに凶悪犯罪の増加や、女性や子どもに対する家庭内暴力の増加、10代女性の婚外出産の増加、民間団体が提供している食料品給付所の利用者の増加などがみられる。とくに人口の約一割を占める先住民族のマオリ系住民が多くの問題を抱えている。
筆者が調査で滞在した98年10月にも北島で農家に押し入り主婦を殺害した事件など凶悪事件が相次いで起きていた。これまでのニュージーランドのイメージとはあまりにもかけ離れたこの種の事件について意見を聞いた人たちからは、何とも言えない苛立ち、敢えて言えば、社会から何かが取り返しのつかないまでに失われているという思いがこちらに伝わってきた。
社会政策を中心とした研究者からは、この間の変化として社会の二極化による貧困問題の深刻さが何度も指摘された。ミドルクラスでも比較的安定しているのはサービス業に従事している層で、国全体でみると、完全雇用を実現することで所得再配分に成功し貧困の概念すら不用であったのに、今では貧困問題が起きているのである。60年代には失業者はほとんどいなかったので、ウェリントン(中央政府)では失業者一人ひとりの名前や状況まで分かっていたという話が、その真偽はともかく、現状の深刻さを逆に浮かび上がらせる。貧困の問題は大きく二つのタイプに分けられる。一つは言うまでもなく失業の場合である。森林業や電力産業のように国営企業への依存度が高かった地域における失業率の高さと長期化の問題、また、都市部の製造業でも民営化の結果失業者は増えている。失業手当受給者への政府の姿勢はきびしさを増しており、失業中でも所定のコミュニティ活動をすることが条件とされている。
もう一つのタイプはthe working-poorと呼ばれ、職があっても低賃金で不安定な人たちである。この層の生活水準の低下はなかなかみえにくく、現政府からは問題とすら認識されていないが、さまざまな負担増のなかで日々の生活に苦しんでいるかなりの人々がこのカテゴリーに含まれる。
政府による削減策としてもっとも深刻な影響をもたらしているのは、公的住宅の家賃の市場価格化と家賃補助の廃止ではないかと考えられる。かつては家賃は所得の25%以内とされ、それを越える場合には公的補助があったが、完全にオープン化された現在、家賃負担が相対的に増加し他の生活費支出を圧迫している。
貧困化の動きは、次のデータからも読みとれる(New Zealand Council of Trade Union資料)。86年以降五年毎に、91年、96年の三時点について失業世帯、一人収入世帯、二人収入世帯の三種類に分けてみると、81年では失業世帯が3%、一人収入世帯が32%、二人収入世帯が65%であった。これが91年ではそれぞれ8%、27%、65%となり、96年では同様に7%、22%、70%であった。つまり、86年から91年にかけて失業世帯が3%から8%に増加したのは主に一人収入世帯からの移動であり、91年から96年にかけては一人収入世帯から二人収入世帯への変化が大きかったことになる。86年と96年の10年間を比べると、一人収入世帯が減少し失業世帯と二人収入世帯がそれぞれ増加したことになる。二人収入世帯の増加は収入面での生活防衛的な意味あいを持つが、それだけでなく夫・男性側の低所得と職の不安定化という面と、妻・女性の家計への貢献度の相対的上昇という面が考えられるから、家庭における夫婦間関係などさまざまな家庭内問題にも影を落としていると想像される。
長く続く改革の過程で生じてきたこうした貧困問題やそれに付随した荒廃に対して国民党政権、とりわけ現シップリー政権はその様な問題があること自体を積極的に認めないし、まして、それらが改革の結果であるという解釈は拒絶している。仮に生活に苦しむ人々が増加しているとしても、それは彼・彼女らが自助努力において怠惰だからであるという19世紀的な懲罰的言説で意味づけている。自己責任と家族の相互扶助を、かつて世界的に有数な生活水準と社会保障水準を誇った国の政府が声高に奨励するようになったのである。そして、現首相は91年に誕生した国民党ボルジャー政権が、労働党が手を付けなかった社会保障分野の改革に着手したときの社会福祉大臣だった人である。
キリスト教団体を中心とする民間組織が貧困問題に対しても支援活動を展開し、そのなかでこの問題を政府にも訴えたのだが、彼らは”members of misery industry”(哀れむべき人々に荷担する者たち、とでも訳せようか)という首相の言葉に象徴されるように唾棄される。
失業者だけでなくthe working-poorの貧困問題の存在とその深刻さは、こうした政府の姿勢もあり、社会的に顕在化しにくい状況が続いていた。マスメディアも民営化の結果世界的大資本系列に組み込まれ、こうした問題を取り上げることには消極的であった。おそらくそれ以上に重要なのは、ニュージーランドはさまざまな幸運に恵まれ、他の国々が経験したような産みの苦しみを経ずして福祉国家が構築できたため、社会問題の解決に向けた社会運動的方法論を歴史的にも文化的にも培ってこなかったことに今気付かされているのである。
1998年は、この意味でニュージーランドにとって歴史的分岐点として記憶されることになるのかもしれない。キリスト教団体のなかでも保守的で知られる英国国教会が中心になって貧困問題の深刻さを社会的にアピールするための全国規模のマーチ(行進)が計画され、誰もの予想を越えた拡がりをみせる。先住民マオリ族に起源をもつ抗議行動としての非暴力行進はその名をとって”Hope of Hikoi”(希望のHikoi)と呼ばれ、9月に全国東西南北12コースから出発した行進はその途中で実にさまざまな人たちの参加でふくれあがりながら10月始めに首都ウェリントンで合流する。提案からわずか三ヶ月の準備で始まったにも関わらず、合計で四万人以上が参加した。これは人口の少ないニュージーランドでは特筆すべき規模であると同時に、この国における新しい社会運動の形態として注目されるものである。
(この調査は97年度ユニベール財団研究助成により実施した。)
木下著、TASC Monthly、no.283, pp. 4-9, 1999