エッセイ 一般
まなび(朝日新聞コラム掲載2012年度)
定年後のモラトリアム
2012年05月22日
教養培い新たな友得る機会
頭では分かっていてもいざその時にならないと実感できない。定年を迎えた人に見られる反応で、それまでの生活パターンから突然解放され、自由でもあり空白でもある生活が始まる。しばらくして趣味や習い事、講座の受講、ボランティアなどいろいろな試し行動を始め、うまくいけば新しい生活パターンができていくが、何かが違うというモヤモヤ感の中で模索が続くことも珍しくない。
2010年における60歳の平均余命は男性22・8年、女性28・4年である(厚生労働省)。青年期は生き方を模索するモラトリアムの時期と言われているが、これだけの時間があるとなると、後半期にもうひとつのモラトリアムの時期があってよいだろう。何となく生きていくには長すぎる時間を手に入れていることに気づきたい。
健康と経済的安定を願うだけでは生活の中身は埋まらない。むろん、この2大条件が基盤を支えるのは間違いないが、これに加えるとすれば、自分の生き方への意思(選択すること)とその調整実験の社会的場(選択肢の提供)だと考えている。教わるのではなく学ぶということの新しい意義がここにありそうである。
学ぶのは趣味や知識だけでなく、それまでとは異なる人間関係の世界である。同じ立場で、人生経験に裏打ちされた人間性をそれぞれ出し合いながら、一緒に学んでいく。「この機会を自分が選択しなかったらこの人たちとここまで知り合うことはできなかった」といった感想が語られる。教養を培いながら新たな友を得ていくプロセス。これからの自分の生き方をじっくり準備できる時間。しかし、そのための場は日本社会ではまだ決定的に少ないという現実がある。
50歳以上の人々を対象に立教大学が独自に開校している立教セカンドステージ大学は現在5年目になる。これらのことはこれまでの関わりから私が理解できたことである。1年間を単位にゼミを必修とする独自のカリキュラム体系をもち、学部生と一緒に一定数の科目を履修する機会もある。
同世代との学びと、年齢の離れた現役学生との学び。さらに、1年間というまとまった時間。これらが相まって学びのモデルができつつある。
立教大教授・木下康仁(きのした・やすひと)
1953年生。立教セカンドステージ大学運営委員。著作に「ケアと老いの祝福」など。
世代越えて
2012年07月03日
人生の先達の声に若者関心
50歳以上を対象とする立教セカンドステージ大学では、少人数のゼミが必修科目になっている。最近は「木下ゼミ」のように、ゼミを担当教員の名で呼び合っていて、10ゼミが開講されている。これが帰属意識をもたらす。大組織よりも十数人程度の小集団の方がメンバー間のやり取りも密で、アイデンティティーにもつながるからだ。
ここ数年、セカンドステージ大のゼミ生に学部生の講義に来てもらって、入学の動機やキャンパスでの過ごし方などを話してもらっている。限られた時間だが、世代を越えた交流の機会になっている。
先日も100人強の学生を前に、50代後半から70代後半のゼミ生たちが自分を語り、学生時代の過ごし方などをアドバイスしてくれた。それぞれの個性が反映された歯切れのいい発言には爽快感があった。
静かに聞く学生たちと好対照で、人生経験を重ねることとは自分の言葉を持つことだと実感した。まだ社会に出ていない学生たちにとっても、人生の先達たちから話を聞く機会はめったにないことなので、とても興味深そうな様子だった。
さて、やり取りの中で、「自分は今学ぶ楽しさを実感している」という発言が、セカンドステージ・ゼミ生の一人からあった。学校に通い、勉強することを当たり前のことのようにしか感じていない学生たちは、ハッとしたようにみえた。
ゼミ生は、仕事や介護を含めた家族の責任を果たし終え、自分のために新しい知識を吸収できる今の生活を「学ぶ楽しさ」と表現したのである。
実感を伴う人の言葉にはリアリティーがある。経験したいと思っても大抵は願望であり、自分にとって「いま・ある」ものという時間は得難い。むろん、楽しさの意味は変わっていくであろうが、実感したことはその人の中に残り、楽しさの中身を充実させていく。
学ぶ楽しさを実感することは、個人の努力だけでは難しい。配慮と工夫を凝らした社会的な場が求められている。
(立教大学教授 木下康仁)
敬老の日
2012年09月25日
生涯学習 ゼミのような場で
例年この時期に高齢化の現状が発表されるが、今年は65歳以上の人口が3074万人に達し、総人口の24・1%を占めるに至ったそうだ。団塊の世代がこの年齢ゾーンに突入し始めた影響が反映されているという。
この時期とは「敬老の日」である。さて、3千万強の人々のうち、どのくらいが自分を「敬老」の対象と感じているだろう。老いの意味もすっかり様変わりしてしまった。
しかし、敬老であれ社会保障制度への負担であれ、高齢者はいつも受け身で語られ、当事者の声が聞こえない点は変わっていないのではないか。発想の転換が求められている。
高齢者とはどの時代にあっても他の年齢層に比べて多様な存在だが、現代の高齢者は心身面、社会経済面、ライフスタイル等々で、この傾向に拍車がかかっている。65歳以上という年齢でひとくくりにはできない。
高齢社会における高齢者とはマクロ的にみると職業的、家族的役割があいまいな不安定な人口集団で、社会に統合されにくい。存在はするが役割はあいまいな状態にあり、これを「役割なき役割のパラドックス」という。
社会に参加する方法が社会の側に準備されておらず、高齢者自身も生き方を暗中模索せざるを得ない。社会に巨大な空白が生まれている。これをどう埋めるかは大問題だが、生涯学習が突破口になるかもしれない。
趣味や知的好奇心のための学習もあるが、重要なことは職業でもなく家族でもなく、新しい役割を創出できる機会の提供である。役割があれば、他人との間で日常的に安定したやり取りをできる関係が築ける。
かといって、いきなりボランティアに参加することを躊躇(ちゅうちょ)するような人には調整の機会が必要で、そのひとつが生涯学習のプログラムに、大学でいえばゼミにあたる科目を入れることである。
一定のカリキュラムに、できれば1年くらいの長さで組み込み、終了時のリポートを課題とする。何かを教わるのではなく自分たちで議論しながらこれからの生き方を検討する場である。そうすると趣味だけの話題から人生観など深い話が始まる。ゼミのようなゆるやかな場で信頼できる新しい人間関係が生まれる。
多様な社会経験をもつ人たちは、ニーズに合致する機会があれば、持っている力を当人も驚くほど発揮できるものだ。
(立教大教授 木下康仁)
小グループでの学習
2012年11月13日
人生後半期の人に目的提供
小グループでの学習の有効性は、多くの人が経験しているはずだ。何人かが集まれば自分とは違う意見やアイデアが出され、考え方には幅が出て、対処方法に選択肢がもてる。成果だけでなく実はこのプロセスが重要なのだ。
最近、「教わる」から「学ぶ」へのシフトのカギを握るのも、このグループでの学習形態ではないかと考えるようになった。とくに人生の後半期に入った人々にとっては有効ではないかと。
PBLと呼ばれる学習者中心の学習方法がある。Pはproblem(問題)またはproject(作業課題)の意味で、BLはそれに「基づいた学習」のことである。
「問題」型は専門教育の代表格である医学教育の方法としてカナダで開発され、患者例を提示してどこに問題があるかを学生に見極めさせていく。知識は系統だって与えられるのではなく、問題解決の必要性から学生が選択し、学習する。転じて、問題を自分たちで発見するところから始まる学習方式をいう。
「プロジェクト」型は課題設定に比重をおく。共通するのは、結果に向けたプロセスの重視で、これに適しているのが小グループという点である。
さて、学校や企業などで経験するグループ作業と、仕事や家庭での役割を離れた人たちによるそれでは、学習の「目的」のあるなしという違いがある。学校は教育の枠組みの中にあるし、企業での目的は言わずもがなである。
人生後半期の人々はそれまでの経験からグループ学習のスキルは身につけている。しかし、今度は目的が与えられないのだ。それまでの社会的責任から解放された結果ではあっても、自由に目的を設定することは未知の経験に近いかもしれない。似通った境遇の人はたくさんいるはずなのに、横のつながりが希薄な現実がある。
推奨すべき生き方を示すのではなく、発想を逆転させて彼らがグループ学習を通じて目的を検討できる環境を提供しよう。これからのライフスタイルや社会的活動を創出する力は備わっている人たちである。答えを教えるのではなく自分たちで見つけるPBLの神髄が活(い)かせる。
では、どこにその場を求めるか。浮上してくるのは社会的資源としての高等教育機関で、その次世代的役割と考えられる。
(立教大教授 木下康仁)